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いばらきの文化財

県指定 有形文化財 絵画

絹本著色 源頼朝像 狩野洞雲筆 1幅

けんぽんちゃくしょく みなもとのよりともぞう かのうとううんひつ

潮来市

海雲山長勝寺は潮来市潮来に所在する臨済宗妙心寺派の名刹(めいさつ)で、鎌倉時代の文治元年(1185)の源頼朝の開基とされています。草創期の長勝寺は鎌倉の円覚寺と所縁深く、寺内には大檀那北条高時、大施主下総国主千葉道暁により鋳造され、円覚寺第十六世清拙正澄撰の銘文を刻んだ「梵鐘」が遺り、国指定の重要文化財となっています。その後中世にかけて荒廃をみたものの、元禄年間に水戸藩主徳川光圀が京都の妙心寺から第二五三世太嶽祖清を招いて寺域の再興を果し、ここに妙心寺派としての長勝寺が再出発しました。源頼朝を描く本作はこの太嶽祖清の賛文を上部に有し、美術的価値のみならず再興期の長勝寺の状況を探る上でも貴重な歴史的価値を持った文化財として推奨されています。
現在、源頼朝を描いたとされる画像は、著名な国宝「伝源頼朝像」(神護寺)をはじめ、鎌倉時代から江戸時代にかけての作例が知られています。もっともこの神護寺本の像主は、近年足利尊氏の弟の直義とする斬新な説が提唱されるなど、けっして確定したものではありません。一方、この神護寺像の形姿を受け継ぐ大英博物館本は、上部の色紙形に記された詩文によって、源頼朝を描いていることが明らかです。江戸時代においても神護寺本に基づく頼朝像の制作が繰り返され、元禄11年(1698)頃には、福岡の聖福寺の住職が旧恩のある源頼朝の五百年遠忌を期して、中橋狩野家出身で福岡藩御用絵師となった狩野昌運に「頼朝像」(聖福寺)を描かせています。このほか幕末期においては復古大和絵の冷泉為恭、古物学者蜷川式胤による模本も存在します。
このような神護寺本系列の「源頼朝像」が造形されていく流れに対して、本作はまた別の系列があったことを示唆しています。上畳(あげだたみ)に座し笏(しゃく)を取って衣冠束帯を着しているところは共通していますが、姿形は向かって右に面貌を向ける神護寺本系に対して、向かって左に面貌を向けています。大らかで端正な顔立ちの神護寺本系に対して、眉間に皺を寄せ厳しさを漂わせています。その像容(ぞうよう)は鶴岡八幡宮所蔵の「白旗明神像」にも共通していて、長勝寺本の図像と男神像の関わりを窺わせています。
本作には上部に太嶽祖清の賛文が記され、右下端には狩野益信の署名・捺印があります。
賛文の内容から、本作が長勝寺の再興を期してもともとの開山時に力を尽くした源頼朝に頼ろうと、新たな意味を込めて制作されたものらしいことがわかってきます。あるいは福岡の聖福寺本と同様に元禄11年(1698)の源頼朝の五百年遠忌と関連する可能性もあります。一方、長勝寺の再興は藩主の徳川光圀の懇請を受けた太嶽祖清によって、元禄4年(1691)から7年にかけて成し遂げられています。このことを踏まえると、草創期の源頼朝と再興期の徳川光圀の役割が重ね合わされていくようです。
これらの諸点を考慮するとき、本作は17世紀後半にかけて幕藩体制が各藩に及んで整備されていく歴史的背景のなかで、過去の将軍と現代の治世者との関係を改めて再認識させる意味をも担って出現をみたことが明らかになってきます。
狩野益信の署名・捺印には、「狩埜洞雲筆」(墨書)「宗深」(朱文方印)とあります。狩野益信(1629~1694)は、画壇の家康といわれた江戸狩野派の狩野探幽の弟子です。その養嗣子となりますが、探信守政の誕生によって別家を立て表絵師駿河台狩野家の始祖となりました。確固とした像容(ぞうよう)の描写や表情の表現にその技量が窺われます。

絹本著色 源頼朝像 狩野洞雲筆 1幅

1幅
指定年月日 平成16年11月25日
所在地 潮来市潮来428番地
管理者 宗教法人長勝寺
制作時期 江戸時代前期