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いばらきの文化財

県指定 有形文化財 絵画

紙本墨画維摩居士像 附徳川光圀書状4通 松平頼救跋1枚

しほんぼくが ゆいまこじぞう

鉾田市

『維摩経』(ゆいまきょう)の主人公である維摩は、在家の身ながらも仏教教理に通じた釈迦の弟子で、維摩が病気になったとき、文殊(もんじゅ)が見舞に来てさまざまな問答を交えています。古来維摩の像は彫刻、絵画においてもよく取り上げられています。
福泉寺に伝わる「維摩居士像」の軸裏には、「元禄壬申之年 光圀 子龍(白文印)」の年紀を持つ次のような書(修理記録)が貼付されています。
「維摩之像、因陀羅絵、賛語無準筆、実世上希有之物也、去年偶過常州鹿島郡大倉村福泉禅寺之次、見此絵甚及破壊故装 以還璧焉」
これによって元禄5年(1692)本図が光圀によって修理されたこと、また当時から、画が因陀羅(いんだら)によって描かれ、賛が無準師範によって書かれたと伝えられていることがわかります。
本図は、維摩が顔を横に向け、病の身を床机にもたせかけている構成をとっていますが、描法、表現は因陀羅とはかなり異なるといわねばなりません。画貌は細筆を中心にリアルに表現し、衣文(えもん)は淡墨(うすずみ)で打ち込みも強く勁悍(けいかん)に引いたあと焦墨(こげずみ)で隈(くま)を付けています。ここには中国元代の道釈人物画にみられる一種の写実主義の影響が顕著に現れ、またわが国の文清(15世紀)の「維摩居士像」(大和文華館蔵)に近い雰囲気も感じられるでしょう。なお、上の賛は「示疾毗耶、平地風波、醫不得處、病在口多、無準師範賛」とあります。無準師範は中国南宋代の高僧、本図賛語の書体はそれとは異なるようです。
元代14世紀の高僧因陀羅の水墨画は日本でも珍重され、特に茶や俳諧をたしなむ文化人としての近世大名の間で高く評価されました。光圀がたまたま発見した福泉寺の維摩像は、軸裏に光圀の修理記録があることから、その高い価値を有し、寛政5年(1793)に福泉寺を訪れた宍戸藩主松平頼救(まつだいらよりすけ・大名俳諧で有名)は、この作品を見た時の感動を書に認めています。なお、禅林とその周辺の人物にかかわる逸話を主題にした禅機図巻の断簡は、「丹霞焼仏図」・「寒山拾得図」・「布袋図」・「智常・李渤図」・「智常禅師図」が国宝となっています。
本品は、中国元代と室町時代の両説があり、さらに無準師範の書体にも問題があります。しかし、いずれにせよ茨城に遺る中世までさかのぼる本格的な水墨画であり、道釈人物画としても貴重な作例といえるでしょう。近年の修理により、保存状態は良好です。
また、当作品の修理由来等の記録として、「徳川光圀書簡軸1巻」(書状4通)、「松平頼救書状1通」が維摩居士像とともに福泉寺に伝えられています。徳川光圀書簡軸1巻は、光圀が福泉寺に宛てた書状4通を軸装したものです。このうち8月15日の書状には、維摩画像一軸の修復が出来たので、飛脚で持たせたこと、軸裏に書を加えたことが記されています。ほかの3通は、11月15日、5月3日、11月15日の日付があり、いずれも維摩居士像に関する内容は記されていませんが、光圀と福泉寺住職常峰との交流を示す内容となっています。「松平頼救書状1通」(寛政5年)は、宍戸藩主で、献山と号し、大名俳諧で有名な松平頼救が、福泉寺所蔵の因陀羅画維摩居像を高く評価する旨を記した書状です。

紙本墨画維摩居士像 附徳川光圀書状4通 松平頼救跋1枚

1幅
寸法 縦108.4cm、横45.1cm
指定年月日 平成17年11月25日
所在地 鉾田市大蔵113番地
管理者 宗教法人福泉寺
制作時期 室町時代