いばらきの文化財

県指定 記念物 史跡

水野越前守忠邦の墓

みずのえちぜんのかみただくにのはか

結城市

水野越前守忠邦の墓は、方4.1mの石の玉垣に囲まれ、その中央に方2mの石段があって、その上に正面122cm、側面116cm、高さ52cmの墓石第一段があり、その上に正面90cm、側面85cm、高さ45cmの墓石第二段があって、その上に墓碑がのっています。
墓碑には、「くみてこそむかしもしのへゆく川のかへらぬ水にうかふ月かけ」という辞世の句が刻まれています。
水野忠邦(1794~1851)は、天保12年(1841)、11代将軍徳川家斉の死後、老中首座となり「天保の改革」をおこないました。
改革は株仲間の解散や上知令(あげちれい)など幕府権力の絶対主義的な強化の方向を志向するものであり、あまりにきびしすぎたため、諸大名や民衆の反発を招いてわずか2年余で挫折し、忠邦は失脚しました。万松寺跡には、水野家初代忠元から11代忠邦までの歴代の墓が、今も残されています。

水野越前守忠邦の墓

指定年月日 昭和33年3月12日
所在地 結城市山川新宿1653-1
管理者 結城市
制作時期 江戸時代後期