いばらきの文化財

県指定 民俗文化財 無形民俗文化財

日立のささら

ひたちのささら

日立市

日立市内の7地区にあるささらをまとめて日立ささらと言います。芸能の次第は地区により多少の違いがありますが、大体次のようです。
まず表庭から、1.摺り込み、2.庭見(トヒーヒ)、3.鈴さがし(トーロロロロ)、4.歌舞い、5.ほまぢ、6.獅子の入羽、7.まめいり(ズクズン)、8.回れや車、9.弁歌踊り(ばんがや)、10.獅子のおどし、11.獅子喰い、12.獅子の仲直り。
裏庭から、1.摺り込み、2.庭見、3.鈴さがし、4.歌舞い、5.獅子の入羽、6.唐土の女、7.獅子のたわむれ、9.獅子喰い、10.獅子の仲直り、以上で約40分かかります。
宮田ささらは、元の宮田村の鎮守である神峰神社の神事芸能として古くから伝承されてきたものですが、元禄8年(1695)、水戸徳川光圀が、神峰神社を宮田、助川、会瀬3か村の鎮守と改めてからは、今日に至るまで助川、会瀬のささらとともに、神峰神社の出社の祭礼の折に、渡御行列の露払いの役をつとめるものです。
宮田ささらは、元宮田佐々羅といい、保存会も元宮田佐々羅保存会と称しました。前述のとおり神峰神社祭礼に欠くことの出来ないもので、古くは宮田村全体でこれの奉仕に当たったようですが、いつ頃からか東町が他の3町内の依頼により、佐々羅係を担当するようになり今日に至っています。
助川ささらは、宮田、会瀬ささらとともに神峰神社の神幸に供奉し、露払いの役をつとめます。神峰神社が宮田、助川、会瀬3か村の鎮守と改められて以来、神峰神社御出社、大祭の神幸に供奉するとともに、助川鹿島神社の祭礼にも供奉しています。助川佐々羅が正式名称です。
会瀬ささらは古来より、宮田、助川ささらとともに、神峰神社の出社の際渡御行列に供奉し、露払いの役目をつとめるとともに、五穀豊穣、村内平和を祈願して獅子舞を奉納するものです。また、会瀬鹿島神社の祭礼で出社の際にも同様です。
大久保ささらは、大久保鹿島神社の出社の際、露払いとして御輿の先導をしてきたもので、大久保の上孫に古くから伝わってきた獅子舞です。そのため地元では、とくに「上孫散々楽」と呼びならわしています。大正15年(1926)以来出社がなく、ささら奉納の機会も絶えていましたが、上孫地区の氏子たちがこれを憂い、宮参りと称して幾度か練習を続け、かろうじて今日迄継承することができたのです。昭和38年(1963)3月、上孫散々楽保存会が結成され、継承保存されています。
諏訪ささらは諏訪神社の出社祭礼の際に奉納され、渡御行列の露払いの役をつとめる獅子舞です。
諏訪神社の祭神は、上社がたたら五十鈴姫命(いすずひめのみこと)、下社が建御名方命(たけみなかたのみこと)で、建長2年(1250)、信州諏訪大社の社人万年太夫藤原高利が霊夢によって上諏訪明神の分霊を字上諏訪の地に、下諏訪明神の分霊を字台の地にそれぞれ勧請(かんじょう)したと伝えられています。
泉が森に鎮座し、天速玉姫命(あまのはやたまひめのみこと)を祭神とする泉神社は、日立地方では最も古く、延喜式内社として正史に出てくる神社です。また、この神社の「当夜祭」は、古い時代の祭事様式を残した珍しい行事です。この泉神社の出社に露払いとして奉納するのが水木ささらです。このささらは、古くは水木の向町が継承してきましたが、氏子20戸の向町だけでこれを保持して行くのは容易のことではないので、現在では水木全域を対象に保存会が結成され、保存伝承がはかられています。
成沢の鹿島神社は、社伝によると平安時代初期の大同年中に鹿島神宮の分霊を移し祀ったといわれています。成沢ささらは、何年かに一度の鹿島神社の大祭のほかの臨時の大祭などに露払いとして奉納する獅子舞で、地元では成沢鹿島神社佐々羅と称しています。昭和12年(1937) 4月に大祭が行われて以来出社祭典がなく、そのためささらも永い間中断していましたが、関係者の熱意と努力によって昭和41年(1966) 4月、29年ぶりに復活しました。

日立のささら

指定年月日 宮田、助川、会瀬 昭和38年8月23日
大久保、諏訪、水木 昭和45年9月28日
成沢 昭和46年7月19日
所在地 宮田 日立市宮田町
助川 日立市鹿島町
会瀬 日立市会瀬町
大久保 日立市桜川町
諏訪 日立市諏訪町
水木 日立市水木町
成沢 日立市成沢町
管理者 日立郷土芸能保存会
制作時期 現在に伝わるささらは、江戸時代中・後期頃の創始